東京高等裁判所 昭和38年(う)1587号 判決 1963年11月28日
控訴人 被告人 中村尚介
弁護人 坂本英雄
検察官 平岡俊将
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人坂本英雄提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。
論旨は、本件盃の底部に貼付されている写真は、刑法第百七十五条にいうところの猥褻の図画にあたらないというに帰する。
おもうに、右法条にいわゆる猥褻の図画とは、その内容がいたずらに性欲を興奮または刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する図画をいう。しかして、当該図画が右猥褻の図画にあたるかどうかは、一般社会に行われている良識すなわち社会通念に従つてこれを判断すべきものである。本件において被告人が販売の目的で所持していた物件は、原判決の適法に認定するところによれば、八種類八十四個の俗にヌード盃といわれているもので、やや深めの盃の底部に裸体の女性が種々の姿態で陰部を露出している写真を入れ、その上をガラスのレンズで被うて、その周囲を盃に密着せしめ、これに通常の用法に従い酒あるいは水等の透明な液体を注入するときは、レンズと液体との作用により忽然として右写真の映像が現われる仕組みになつているものであり、なお、原判決の引用証拠によると、その映像は、手を広げ、股を開き、からだをくねらし、乳房を抱き、ほほえみかける等の各様の煽情的な姿態を取り、陰部(主として陰毛の部分)を露出している若い女の裸像であることが認められる。右写真は、われわれの社会に行われていると認められる良識すなわち社会通念に照してこれを評価すれば、いわゆる性器の非公然性の原則にもとり、いたずらに見る者の性的欲望を興奮刺戟せしめ、少くとも家庭の団欒、世間の集会等で披露をはばかる程度に普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念上嫌忌せざるをえない性質のもので、したがつて、論旨により証拠価値を否定されている原審鑑定人柏崎昌彦の鑑定書記載の鑑定の結果をまつまでもなく、前記法条にいわゆる猥褻の図画にあたるものと解するのが相当である。なお、猥褻の図画であるかどうかの判定基準である社会通念は、個々人の認識の集合またはその平均値ではなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識を持つことによつて否定されるものではない。したがつて、原審鑑定人菅原通済がその鑑定書において本件盃につき示した「この種の物件を昭和二十年以前は猥褻物件として取り扱つたかもしれないが、現在の世相にはあてはまらない」との見解は、一有識人の個人的見解としては注目に値するが、さきに示した猥褻性の判断を左右するものではない。また、原審証人中島三郎、同中村勝郎および同中村小三郎に対する各尋問調書記載の供述中論旨引用にかかる前記写真の出所その他の点に関する部分がかりに真実であるとしても、右判断は、なお妥当するものと解すべきである。原審弁護人が提出した文書図画の類は、右写真と事例を異にするから、前者が一般に市販され、不問に付されているという事実によつて後者の猥褻性の有無を律することは、失当である。(ちなみに、原審鑑定人柏崎昌彦の鑑定書については、原審において検察官および弁護人が証拠とすることに同意しており、原審のいわゆる相当性の判断に誤があるとは認められないから、その証拠能力を否定する主張は、採用のかぎりではない。)
論旨は理由がない。
(裁判長判事 坂間孝司 判事 栗田正 判事 有路不二男)
弁護人の控訴趣意
原判決は刑事訴訟法第三八〇条又は第三八二条に違反するものと信ずる。
原判決は、本件検察官の公訴事実をその儘、認定し刑法第一七五条に該当するものとして、被告人に対し有罪の判決をしるしている。
仍つて、ひるがえつて勘考して見るに昭和三十六年三月十七日株式会社中村屋の店舗にヌード盃八四個が存在したことは争いない。そこで右ヌード盃が果して猥褻図画たるべき性格を有しているかどうか。先ず前提として刑法第一七五条の、いわゆる猥褻の文書図画の本質を明らかにせねばならない。大審院はこの点について「刑法第一七五条に所謂猥褻の文書図画その他の物とは性慾を刺戟興奮し、又はこれを満足せしむべき文書図画その他一切の物を指称し従つて猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の観念を生せしむるものなることを要することは、其前条の猥褻行為に関する規定と対照して之を解するに余りあり」(大正七年六月十日、大審院判決)として、猥褻物たるには「羞恥嫌悪の観念」を生せしめる性質を具備することを必要としている。が、しかし、猥褻の性質も時と処とによつて相違して来るのは当然であつて、その後、東京高裁は「近代社会においては政治、経済、文化の進歩に伴い、性に関する一般社会人の良識又は社会通念は、盲目的無批判的な性的行為の秘密性の厳守から、漸次意識的批判的な正しい性の解放に向つて進んで行くような傾向にあるものと解し得られ、その限度において、次第に猥褻文書を認める範囲を減縮して行く結果を招来することは窺われるが、前記説明のように、これにも一定の超ゆべからざる限界があり、社会生活において個人の性器若くは性的行為を公然表示し、又は公然表示したと同一効果を生ずべき個人又は小説等の作中人物の性器若くは性的行為の露骨詳細な描写又は記述を公然表示することは許されないものと解すべきである」(昭和二十七年十二月十日、東京高裁判決)としてここでは「性器若くは性的行為の露骨詳細な描写又は記述」ということを強唱している。だから、この判例によつて、往昔の猥褻の本質であつた「羞恥嫌悪の観念」の発生ということが「性器又は性的行為の露骨詳細な描写又は記述」に置きかえられた、ものと認めてよいと思う。
最高裁も「刑法第一七五条にいわゆる猥褻とは、徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道徳観念に反するものをいう」(昭和二十六年五月十日最高裁判決)
と云つて、やや抽象的ではあるが、前記、高裁の判決と同様の枠を設定しようとしている労作が認められる。
そこで本件ヌード盃の点になるが、盃自体を見てもこの底部に入つているヌード写真は小さいから、それが猥褻性をもつているかどうか判らない。が、しかし、これに水又は酒類を入れて見るとヌード写真であることが認められる。只、ここで注意しなければならない点は、本件盃の使用方法についてであつて、これに水又は酒類を含ませて底部を見るか、又はその儘の状態においてこれを見るかが通常の使用方法であり、底部を拡大レンズなどで大きくして写真などに撮影して見る、という如きことは通常の使用方法ではないのである。本件盃の底部の図画が猥褻性を有しているかどうかの判断は、右盃を通常の方法によつて使用する場合にのみ考慮されることであり、前述の如く通常の使用方法以外の場合には考慮せらるべきでない、ということである。而して本件盃の底部の図画の種類は八種類であるがこの内に果して刑法云うところの猥褻図画に該当するものがあるであろうか、猥褻の定義を前述の如く「性器若しく性的行為の露骨詳細な描写」又は「性慾を興奮又は刺戟せしめ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道徳観念に反する」ものであるとすれば、私は、この観念に該当するものは存在しないものと信ずる。当弁護人が証拠物として原裁判所に提出した数十点の写真などを見ると、その内には本件盃の底部のヌード写真より一層ひどいものが数多存在する、が、しかし、当局はこれらの証拠物に対し何等取締の手を出していない。これら、本件ヌード盃より程度が進んでいると認められる図画等に対して、取締りが実行されていないということに対しては二つの見方が考慮される。その一つは、これら図画等は元来は猥褻性が存在するのであるが、取締の法網を免れているのだ、という見方であり、もう一つは本質的に猥褻性が認められないから取締りの対照から外されているのだという見方である。が、しかし、猥褻性が認められるならば、取締るのが原則的秩序である、と解するのが一般的の見方であると認むべきで、猥褻性があるが、取締の法網から免れているのだから本件ヌード盃をそれと比較して価値判断を下そうとするのは誤りである、とする見方は歪められた見解である、と信ずる。前記、当弁護人から原裁判所に証拠として提出した数十点の図画等の内には、終戦前においては猥褻性を認められても致し方ない、と思われる物件が存在する。が、しかし、猥褻とか残酷とかいう価値判断は固定したものではなく、文化の進展と共に、性文化とか又は真実の姿の批判とかの考慮の下に、絶えまなく変化向上しつつあるもので、終戦前迄は猥褻性又は残酷性があると認められたものも、現在ではそうでない、という現象は枚挙にいとまがない。例えば、接吻という事実を見ても、終戦前迄は猥褻性ありとして映画などでカツトせられたものが、今日ではテレビにも平然と映出されているし、むごたらしく殺害された死体とか、銃殺のシーンなども戦前では、カツトされていたものが今日では堂々と公展されている。例えばロシア残酷物語という映画の如きその適例である。かく考慮して来ると、前記、当弁護人から原裁判所に証拠として提出した図画等に表示されている内容は、昔はとも角、今日の我が国の性文化から見て猥褻性が認められないために、取締りの対照から外されて来ているのだ、と本質論的に見るのが正しい、と信ずる。大体、本件盃のヌード写真は、原審証人中島三郎氏の証言によると、市販の「アトリヱヌード」などというヌード写真等から引き抜いたものを使用した、ということであつて又原審証人中島勝男氏の証言によると「笑の泉」などからも抜いたものがある、ということでいずれも使用の材料となつた市販のヌード雑誌が問題になつていない以上、それから引き抜いたヌード写真が問題にされる、ということはおかしなものである。原審証人中村勝郎氏の証言によると、本件と同一ヌード盃について東京都下氷川の警察では、この程度のものならいいだろうと許可を与えたということや又伊東、熱海、湯ケ原温泉場等にも同一盃が行つているが問題となつたことはないという事実を証言しているし、更に又原審証人中島小三郎氏も、土岐津の警察でもあの程度のものならいいだろうと云つていた等の事実と合せ考慮すると、本件ヌード盃は、性器又は性的行為の露骨詳細な描写に達していたのみならず、善良な性的道徳観念に反するものが認められなかつた、という事実が十分に窺われる。弁護人から証拠物として提出してある谷崎潤一郎氏作の「鍵」や円地文子作「団地夫人」及び例のサドの「悪徳の栄え」などを見ると「性慾興奮、刺戟」「性的羞恥心阻害」「性的道徳観念違反」に該当するのではないか、との疑の強い部分もあるが、前二者についてはこれを問題にしないし、後者については東京地裁の無罪の判決もある等の事実から考慮すると、本件ヌード盃の如きは、そのレベルが遙かに底下しているので殆んど問題にする価値はないものと信ずる。本件ヌード盃の内、二種類位には或いは陰毛ではないかとの、かすかの疑をいだかしめるものがないではないが、これらは、前示東京高裁判例の示す「性器若しくは性的行為の露骨詳細な描写」ではないから、殆んど問題にならないと思う。
大体、ヌード性というものには猥褻性は原則として包含されていない、ものと見てよいではないか。つまり、ヌード性と猥褻性とは全然別個の観念であつて、ヌード性に属するものは、今日の性文化から云えば、原則として認容さるべきものであり、又現実にされつつある、ものと認めてよい、と思う。
だから、白木屋百貨店の入口にも女子の全裸の彫刻物が展示されているし、公私の各種展覧会などに行つても、云わゆるヌード展示物がおびただしい。
だから、ヌード性と猥褻性とは別異の観念であつて若し、これを混同すると展覧会などのヌード画に迄、猥褻の疑惑を向けなければならない筋合となり現代の性文化を理解しない、ギコチない、非文化人と批判されることとなると思う。次に、原判決は弁護人申請の鑑定人菅原通済の鑑定を斥け(しかも、斥けた理由については何も云わずに――)、検察官申請の、柏原昌彦の鑑定を無条件に採用している。仍つて、同鑑定人の鑑定について当弁護人の意見を述べたい。一口に言うと右鑑定人の鑑定は、所謂オーバーであつて措信できない、という一言につきる。右鑑定人に対する鑑定事項は「本件盃が刑法のいう猥褻図画と認められるか」というのであるのに、右鑑定人は、これに対して一、本件は見る者をして、羞恥嫌悪の念を抱かしめ。二、その実害については使用状況の、おのずからなる制約があつてほとんどいうに足らない。三、ただし、販売方法は、せつかく備わる使用上のチエツク性をみずから打ち破り商魂一辺倒の背倫性に充ちて不当である。
と鑑定の結果を表示しているが、右二、三などは鑑定命令に包含されていない事項なのである。大体右鑑定人の鑑定書を拝見すると、意義不明の説明の個所が多い、一、二の例を見ると、前述、鑑定の結果の二に表示されている「その実害については、使用状況のおのずからなる制約があつて、ほとんどいうに足らない」という如き右鑑定書第一の最後に表示されている「最高裁の指導判例としても、またすべての疑義を払つているものかどうかにわかに答え難い有様である」という如き又、右鑑定書第二の終りの方で「団地夫人劇の煽情性にくらべれば、ヌード盃の如きは物の数でもないとする見解はいうなれば目クソが鼻クソを笑う類とはされないだろうか」と云つている如きそれである。特にひどい部分は、右鑑定書第一の(C)の部分であつて「さらに注意されるのは、性慾を刺戟興奮し、羞恥心の損害度も裁判所が判断しその判断の基準は社会通念の良識によるとする認定態度が改めてそして新らしく表明された点である、ワイセツ問題の扱いは事実の認定によるのではなくて、法の解釈問題だとした最高裁の態度は罪刑法定主義を危くするものであるとか、あるいは社命の通念によるといつても、ただ時流に追随することではあるまいとするなど、多くの論議をよんだが、しかし、ひろく社会関係に視野をひろげて総(綜)合的に判断しようとする方針に裁判官の専断化を恐れる者にかえつて安全保障を与える意味を持つかもしれない。純主観的でもなく、また単に事実認定におけるような純客観的なものでもなく、いわば血の通つた包摂的な主観的客観性によつて裁断しようとする態度の表明も、同じ類観念に立つておりこれも一図にただあいまいの名で棄てらるべきでない。それらは含畜ある一つの進歩性と責任性をさえ示すものと解することができる」というに至つては、この鑑定人の頭は変ではないかとさえ疑わしくなる。かくして、右鑑定人は、判例の猥褻に対する観念をあいまいなものと独断して「われわれはあいまいな性慾の刺戟の語に代えて劣情を刺戟するものにおいて、はじめて違法性が生ずるものと解する。としている。「性慾の刺戟」と「劣情の刺戟」との間に、どれだけの法的区別があるのかもしれないが犯罪構成要件の一部の解釈が違法性に関係あるものとした、「独りよがり」には只管恐縮するのみである。そして、前述した彼のオーバーな見解は「さらに(F)型と(G)型に至ると女の顔もはつきり見られ、しかもそれがニツタリと笑いかけながら見る者に向つて手を差しのべたりひろげたりのポーズをとつている。恥毛も乳房も露出した全裸の女が、ニツタリと怪しい笑みを浮かべている図は妖気的な迫力を加えやがてその無気味さから醜悪ないやらしささえ感じさせられる」と展開され、問題のヌード盃よりも彼の表現自体の方に猥褻性がにじみでている位である。特に彼は欧米を見学した彼の友人所見意見迄も鑑定書中に折り込んでいる。右様に考察して見ると、前記鑑定人には鑑定人に必要とする「学識経験」の要件が具備されているかどうか問題となり、そのオーバーな表現に、どれだけの真実性が含まれているか疑わざるを得ない。又、弁甲第四二号証の朝日新聞社の回答によると東京都即売委員会倫理化審議委員会というのは、即売スタンド等で取扱う出販物についての倫理性を審査する機関であつていわば出販物の道義的価値の判定を司るもので、猥褻性などの犯罪性にはタツチしていないものであることが窺われる。これら諸点を考慮すると、前記鑑定人の鑑定書はこれを裁判の資料に供することに対して法律上各種の疑問が包含されているので、当弁護人はこれに証拠能力がないものと信ずる。これに反し、鑑定人菅原通済氏は周知の知名人で、その学識経験はあらゆる面において最高に評価されており、政府も亦、同鑑定人の学識経験を買つて売春などの調査研究を委託しているので、菅原鑑定人の鑑定の結果は無条件にこれを呑んでいいと思う(尤も当弁護人としては同鑑定人の鑑定の内に多少の不満とするところはあるが)特に同鑑定人が本件ヌード盃を評して「こつけい感の方が多い」としたのは卓見であると思う。然るに原判決は、本件公訴事実をそのまま認定し、これに対し、刑法第一七五条等を適用処断したのは、刑事訴訟法第三八〇条又は第三八二条に該当する違法があるので、原判決は破棄せらるべきものと信ずる。